ストア派の提案する生き方とは

幸福をどう定義するかの議論

「人はなぜ生きるのか」という問いに対して哲学者たちの答えは一貫している。それは「幸福になるため」だ。しかし、これは「生きる」を「幸せになる」と言い換えただけに過ぎず、では幸福とは一体何か、どのようにすれば幸福になれるのか、という新たな問いが生まれてくる。

このような議論は古来からされてきた。古代ギリシア七賢人である哲学者ソロンは、リュディア王国の王と幸福についてやりとりした際にこのように述べている。

されば、クロイソス王よ、人間の一生はすべて偶然であります。(中略)人は死ぬまでは、好運な人とは呼んでも幸福な人と呼ぶことは差し控えねばならないのです。

人は生きている間は自分が幸せであるか知ることができず、死ぬ時になって初めて分かるものだとしている。

アリストテレスの場合

しかし、アリストテレスは、ソロンのこの言葉を批判した。幸福は何か永続的なものであると考えるのに、その時々の運によって幸福になったり、不幸になったりしてしまう上、死ぬまで幸福であるかわからないのは不合理である、と。

アリストテレスの著書『ニコマコス倫理学』によると、すべての人間の行為は何らかの善を目指すと言われているが、この善には階層があるとされている。何らかの善を目的として行動する場合に、その行動が別の善のためになされるときと、その行動そのものが善であるときがある。

例えば歩くという行為は、駅に着くことを目的にする場合と、散歩のように歩く行為そのものを目的とする場合がある。しかし散歩の場合、歩くことは健康のため、という別の目的のためにやっている場合が多い。この時、歩くという善(目的)の上に、健康という善があることになる。このように、階層になっている善のうち、究極的な善を知ることが人生によって最も重要であり、この最高善こそが幸福である、とアリストテレスは述べている。

また、アリストテレスは、幸福であるための条件として「外的な善を必要とする」とか「運をも合わせ必要とする」といったことも追加している。この外的な善とは、生まれの良さ、容姿の美しさ、孤独ではないこと、子宝に恵まれるといったことである。

これに対して、ストア派はこのような外的な条件は、人の幸不幸には一切関わりがないと主張した。ストア派が幸福になるために提案した生き方というものを詳しく見ていこう。

自然に従って生きること

物事は運命に従って起きている

ストア派は運命論を支持する。ストア派によると、自然や宇宙は、ロゴスによって支配される一つの有機的な存在であるとしている。このロゴスは、宇宙を支配する理性的な力(≒運命、神)という意味で、人間もこの宇宙的なロゴスを共有しているので、ロゴスに従うことが正しい生き方としている。

出来事が君の欲するように起きることを願ってはならない。むしろ、出来事が起きるがままに起きることを願うのがよい。そうすれば、道が開けてくるだろう。

エピクテトス『要録』

ストア派の哲学者エピクテトスによると、物事は我々の力の及ばないものと及ぶものの二つに分類できるとしている。力が及ばないものの例としては肉体、財産、評判、官職など外的なもので、これらは運命や摂理によるものなので、自分ではどうすることもできない。一方で、力の及ぶものの例としては、判断、衝動、欲望、忌避など精神の働きによるもので、これらは意思によってコントロールができる。

富、健康、名声、生死、快楽、労苦などは外的なものであるが、これ自体としては善でも悪でも無く、これらは意思を伴って初めて善いものとなる。使い方や捉え方によって幸福にも不幸にもなりうるので、それらを有効的に用いるために、理性的に判断する力が必要になるとしている。

回りくどくなってしまったが、要するに外的な世界は自分で変えることができないので、自分自身の考え方を変えるのが幸福になるためには必要ということだ。

心の仕組み

ストア派によると、魂(心)の中心は「指導的部分・指導理性(ヘーゲモニコン)」からなる。外部の対象がもたらす心像から、それに向かおうとする衝動(ホルメー)か、それから離れようとする反発(アポルメー)が生じるが、これはすべて魂の指導的部分の働きである。

ストア派の心の働きについて具体的に考えてみる。犬がドッグフードを前にして、目の前の情報から「そこにドッグフードがある」と判断する(心像)。食べたいと感じて(衝動)近づく場合もあるし、嫌いな食べ物だと分かると逃げ去る(反発)する場合もある。

そして、指導的部分が理性に基づいて行動するときに妨げとなるのが、さまざまな情念である。情念には怒り、苦痛、恐怖、欲望、快楽などがあるが、ストア派はこうした情念をコントロールし、情念がない状態(アパティア)を目指すべきとしている。

怒りなどの情念をどう対処するか

情念をコントロールするには、心の鍛錬が必要だとされている。具体的にどう訓練すれば良いか、というのはまた議論が必要になるが、セネカが提案している、怒りとの向き合い方はとても参考になる。

怒りに対する最大の対処法は、猶予をおくことである。

『怒りについて』

時とともに怒りは収まるから、それまで待つことだ。ただし、自分の家族や友人が虐げられているときに、怒りを抑えて黙っていろということではない。

なにごとにつけわれわれが公平な審判者であろうと欲するならば、われわれのうちだれひとりとして過たない者はいない、ということをまずは肝に銘じておかねばならない。

『怒りについて』

怒りを感じた時はその感情を爆発させるのではなく、自分が正しいと信じる時は、その相手にいうことも必要だが、同時に自分も同様の過ちを犯しかねないということを思い出さねばならない。

人生の限られた時間とどう向き合うか(セネカ『人生の短さについて』)

人間は大体80年くらい生きる生き物だが、これは長く感じるだろうか、短く感じるだろうか。仕事に追われる日々を過ごしていると、過ぎていく時間はあっという間に感じられ、人生は短いという嘆きを耳にすることもある。

しかし、ローマ帝政初期のストア派哲学者セネカによれば、理性的な時間の使い方をすれば人生の時間は長くすることができるという。

多忙な人間がどう時間を過ごしているか

時間というものは、早く過ぎ去っていくものなのに、私たちは時間がまるで尽きることのない資源のように扱ってしまっている。

多くの人が、時間を自分のために使っていない。銭勘定したり、心配事をしたり、人のご機嫌を取ったり、頻繁に飲み会に出かけたり、と(これらのことに時間を使うことが必ずしも悪いとは言えないが)、そういう類のことに多くの時間を費やし、忙しい日々を送っている。

忙しさに身を任せた時間の過ごし方は「生きている」とは言えない。「忙しい」は「心を失う」と書くが、それは自分の時間がたくさんの仕事や用事に占領され、自分の心が弾き出されている状態だ。

「われらが生きているのは、人生のごくわずかの部分なり」と。なるほど、残りの部分はすべて、生きているとはいえず、たんに時が過ぎているだけだ。

セネカ『人生の短さについて』

自分が死すべき存在だということを忘れ、五十や六十という歳になるまで賢明な計画を先延ばしにし、わずかな人たちしか達することのない年齢になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。

セネカ『人生の短さについて』

生きることは生涯かけて学ばなければいけないもので、過去の偉人でさえ生きる真の意味を見出していない。多忙な人間が、生きることを知れるはずがない。

人生を長くする時間の使い方とは

では、どのように時間と向き合えばいいかというと、それは「未来に頼ることをせず、過去と向き合って、現在という時間に集中して生きる」ことである。

未来は運命の支配下にあって不確かなもので、自分の思い通りにならない。私たちは未来へ期待するが、未来のことばかりに目を向けていると、今という時間が蔑ろになってしまう。

生きるうえでの最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。あなたは、運命の手の中にあるものを計画し、自分の手の中にあるものを取り逃がしてしまう。

セネカ『人生の短さについて』

それに対して、過去という時間は、既に起こったことで確かなものである。また、昔生きていた偉人の教えもある。過去を振り返る時間を設けることで、今という現在をより良く生きれるようになる。

われわれが過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確かであり、過ごしてきた過去は確かである。過去が確かであるのは、そこには運命の力が及ばず、だれの自由にもできないからだ。

セネカ『人生の短さについて』

閑暇をどう過ごすべきか

「閑暇」と「暇」は区別されるべきである。私たちは暇な時間ができると、一時的な楽しみに時間を使ってしまうが(「暇つぶし」から思い起こすような過ごし方である)、セネカは、真の閑暇は「過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある」と述べている。

過去の偉人が残した教えは、私たちが生きるためのお手本である。また、過去から学ぶことは、人間の弱点である視野の狭さを克服することにもつながる。

自然は、われわれに、すべての時代と交流することを許してくれる。ならば、われわれは、この短く儚い時間のうつろいから離れよう。そして、全霊をかたむけて、過去という時間に向き合うのだ。過去は無限で永遠であり、われわれよりも優れた人たちと過ごすことのできる時間なのだから。

セネカ『人生の短さについて』