言葉にするという行為は、一つ下の次元に降りて物事を見ることだと思う。
抽象的で、もわもわと感じているものに単語を当てはめて、定義をする。それを行った瞬間に、様々な意味の可能性が切り捨てられて、自分が感じていたものと、そこに生まれた言葉との間に大きなギャップを感じる。
日常会話のほとんどが大して意味のないやりとりばかりで、言葉なんてなくても良いんじゃないかと思うこともある。動物や自然と、沈黙の中で向き合っている時の方が周りとの深いつながりを感じる。沈黙を恐れている人は多い。
以前二ヶ月ほど声が出せなかった時期がある。
最初は自分の意思をうまく伝えることができなくて、とてももどかしい思いをした。しかし、その状況に慣れてくると、私が何か書いて伝えようとしない限り、周りの人は私の様子をあまり気に留めなくなって、良い意味で放って置かれているみたいで気が楽だった。
言葉は時にどんなに鋭い刃物よりも人の心を傷つける。私は言葉で周りの人を傷つけてしまったから、その時声を取り上げられたのかもしれない。声の使い道をちゃんと考えなさいと。
そして皮肉にも、私が今まで自分に向けれられて傷ついた言葉を考えた時、海外で聴覚障害を持った人にされた、ネガティブな意味のジェスチャーが真っ先に浮かんだ。
もちろん言葉を知っていて良かったなぁと感じることもある。文学作品や詩を読んで、美しい文章に触れた時。文字を読んでいる時、これまで自分が見てきた情景の記憶、感情、知識を紡ぎ合わせて、その言葉の広がりを想像する。
言葉にする行為が暗号を作り出すことだとしたら、言葉を読んだり聞いたりする行為はその暗号を解読していくようなものだ。これまで生きた中で得てきた経験が詰まった言葉の辞書を引きながら。だから、その復号の仕方は人の数だけ無限に存在する。