インターネットを使えばいくらでも自分が探している言葉は見つけられる。そんな現代で、哲学を体系的に学ぶ意味はあるのだろうか。
最近ふと手に取った本がきっかけで、哲学の世界に興味を持ち勉強を始めた。ChatGPTに作成してもらった六ヶ月間の学習計画のうち、一ヶ月目の哲学の入門編について概ね終えたので、この章で考えたことについて一本の記事を書いて自分なりのまとめとしたいと思う。
正直なところ、今までの私は哲学を学んで一体何になるのかと思っていた。答えのない問いを悶々と考えて、結局その答えを確かめることもできない。例えば「人間は死んだらどうなるのか」という問いは、多くの人がこれまで考えてきたものだと思うが、実際に死んで確かめることはできないし、死後の世界が存在するかしないか、そういう宗教観によっても大きく答えが変わってくる。
ただ、哲学に対するこのような批判的な姿勢はこの学問を学び始めて少し変わった。気づけば、無意味だと思っていた問いに、自分でも驚くほど真剣に向き合っていた。
これは入門書として手に取った哲学者の西研さんの本(集中講義 これが哲学! いまを生き抜く思考のレッスン (河出文庫))の中で述べられていた、哲学を学ぶ意義についての考えに納得できたという側面も大きい。
本の中で彼は哲学を「考えの普遍性を目指すゲーム」と定義していて、その普遍性はかっこよく言えば「真理」なのだけれども、平たく言えば「多くの人が納得できる考え」である。そして、この普遍性を探究していくには、問いの根本から掘り下げて考えていくことが必要だと述べている。
先ほどの「人間は死んだらどうなるのか」という問いには答えがなく(答えがあったとしても確かめることはできない)、それについて意見を交わしても結局議論の堂々巡りとなってしまうわけだが、ではなぜ人は「死んだらどうなるのか」ということを考えてしまうのか、というところまで掘り下げてみる。そうすると、その根底には死への漠然とした恐怖があり、その恐怖とは何かということを言語化していくと、例えば「愛する人から引き離される恐怖」だとか「肉体を失って何もできなくなる恐怖」「死というわからないものに飲み込まれる恐怖」というように、自分の中にある感覚を確かめていくことができる。そしてそういう意見を他者と交換していく中で、自分も他の人も納得できる共通の感覚があることを知る。
インターネットやスマホが普及した現代の社会において、人と常に繋がっている状態に疲れてしまうことがある。そして、そういったツールがあるにも関わらず、私たちは依然として孤独を感じている。この孤独は、人が生まれながらに持っているものが、現代で姿を変えて現れたものなのかもしれない。しかし、この孤独がなぜ生まれるのか、こんなにも科学が発達したのにも関わらず、私たちは私たち人間の「心」について無知のままだ。
人間は誰しもが誰かに受け入れられたいという欲求を持っている。赤子の時は無条件に親に受け入れられ、不安を感じれば泣けば誰かが駆けつけてくれた。しかし、成長と共にその受容の形式は変化し、子供は親に叱られないように、相手に喜んでもらいたいから、といったように周りを気遣いながら自分を変えていく。それは社会においても同じで、相手に合わせて自分を変える、この在り方に疲れた時、私であってもなくてもありのままの自分を無条件に受け入れてほしい、という心の声が聞こえてきて、そういう時の心の拠り所として宗教が存在するのかもしれないなと最近思った。
私たちが感じている一人一人の孤独を言葉で他者と共有し、その感覚を探っていくことで、現代の孤独を癒すことができるかもしれない。
そう言ってはみても、それは容易なことではない。社会や家庭の中で個人の役割が明確だった時代とは違い、現代の私たちは多様な生き方が認められるようになった一方で、自分の「生きる意味」を自ら問い続け、見つけなければならなくなったからだ。
安価な娯楽やSNSによって、私たちは楽に時間を潰すことができるし、そういう手段を使えば生きることへの本質的な問いから目を背けることはできる。しかし、心のどこかでしこりのような違和感を感じながら、緩やかに死へと向かっていくのは嫌だなぁと思ってしまった。哲学は、自分自身の価値観を問い直し、人生において何を大切にすべきかを考える手助けとなる。
答えのないことを悟りとするか、「答えがないという答え」を探究していくか、私は今は後者を選んで生きていきたいなと思っている。