素足に触れる床が冷たい。つい最近まで半袖で寝ていたのに、箪笥からカーディガンを引っ張り出してきたほどだ。
外では雨がしとしと降っている。学生の頃に読んだ『マチネの終わりに』をまた読み返したせいか、クラシックが聴きたくなった。静かな雨音とチェロの低音に包まれていると、バッハの無伴奏チェロ組曲は、雨の日のためにあるのではないかと思えてくる。
先月久しぶりにバックパックを背負って関西を旅した。海外に比べると言葉は通じるし、日本は増して治安が良いのでスリルには欠けたが、それでも行く先々で様々な出逢いがあった。
いくつか美術館を巡ったが、香川の美術館が良かった。イサム・ノグチ庭園美術館と、直島の地中美術館、李禹煥美術館を訪れた。李禹煥の海越しに見える屋外の作品が好きだったので、その後東京で開催されていた企画展も気になって足を運んだ。
自然の彫刻
石材業が盛んな高松市牟礼町にあるイサム・ノグチ庭園美術館。元は彼のアトリエ・住居として使われていた地で、アトリエは地元の花崗岩が積み重なってできた塀に囲まれている。敷地内には、未完成作品を含めた多くの岩の彫刻作品が点々と並び、その作品たちには題名や説明が無く、作品を観た者は各々が異なる感想を抱くだろう。豊かな自然が溢れるその空間で、作品と鑑賞者はその場所と一体になる。
スタッフの説明を聞いていて印象に残っているのが、彼は「自然を彫刻する」という哲学のもと、作品を生み出し、この場所を作り上げてきたということだ。
彼の住居からアトリエにかけて岩で作られた滝が「流れている」が、これは雨水が上から下へと流れていく様子が石や岩で表現されている。滝の上部は小さな石が使われ、下にいくにつれて大きく、ゴツゴツとした岩に変化していく。
住居の隣にある石の階段を登り、丘の上に行くと街を囲む海が見渡せる。イサムは生前、この景色を気に入っていたと言う。
外から持ち運ばれた岩石がやがてこの場所に根付き、そして彼の死後も、雨風にさらされ変化していく。その流れが無常観に通ずるようにも思えて、ここで見た丘の景色を今でも鮮明に覚えている。
光の性質
壁に手を触れると、こもった熱がコンクリートに移っていく。直島の地下空間に広がる沈黙と光。クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリア、三つに区切られた展示空間は、それぞれが異なる顔を持っている。
靴を脱いでタイルの上を歩いていくと、白壁に囲まれた大画面のモネの絵がある。地中美術館のこの展示室には照明が無く、天井から差し込む自然光が睡蓮の池を淡く照らしている。
数年前にパリのオランジュリー美術館で観たモネを思い出したが、ここではまた別の沈黙が流れている。色にその違いを例えるならオランジュリー美術館の光はオレンジ色、地中美術館の光は白色。透き通ったその光に包まれると、ヨーロッパの教会を訪れた時のような静寂を感じさせる。
対話
直島に着いて電動自転車を借りた。その日は三十度を越える猛暑日だったが、自転車を漕ぎ出すとすぐ横には水平線状に続く海が見え、汗をかいた頭皮にサイクリングの風が当たるのが気持ちよかった。
李禹煥美術館に着くと、海を背景に大きなアーチがかかった作品が目に入った。館内の展示は想像していたほど見応えに欠けたが、再び外に戻ってくると誰も人がいなかったので、木の影で一人芝生の上に寝転んだ。空を見上げると木の葉が風に揺れていて、夏の日差しが時々差し込んでくる。自然とモノとが調和している空間。
国立新美術館で見た作品はまた違った印象を抱かせた。直島の自然を背景にした空間とは違って、四方が壁に囲まれた展示室で、より自分と作品の二者の間に流れる沈黙が際立って感じた。
- 時間を経て色や形が変化した岩と、化学繊維・染料の座布団
- 丸みを帯びた岩と、切って加工した真四角の鉄の板、その錆
- 光と影
- 鏡と砂利(足元に映る天井)
- 線の濃淡、線の強弱(線が消えていく)、ランダムか整列か
自然と人工物は対立した概念のように捉えがちであるが、展示室に置かれたそれらは異なる素材や性質が為す一つの関係性である。ただそこにそれらがある。そこに意味を見出すのは人だ。
禅
これらの美術作品を通して作品と向かい合った時の、その没入体験が日本の庭園でぼーっと無心になった時のような体験に似ていると感じた。旅行から帰ってきて、仏教哲学者の鈴木大拙の著書『禅』を手に取った。
この『禅』は、彼が欧米人に向けて禅を体系的に英語で説明した文章が土台となっており、それらを日本語に再翻訳して出版された。概念や言い回しが難解な部分もあったが、やはり長年読まれてきただけあって、禅の入門書としては良書であった。
「禅とは何か。」
禅は体得するものであって、このような問いを議論するのは、彼らが望むところではないが、禅匠たち曰く禅は私たちの「平常心」だと言う。眠くなれば寝るし、空腹になれば食べる、そこには我々の日常の生活を越えるようなものは何もない。そこにあることを、あるがままに感じること。
この本を一度読んだだけで禅を知ったようなつもりになってはいけないと思うが、それでもこの一冊を通して「禅」と言うものに一層興味が湧いた。最近同じ日々の繰り返しに退屈し、外にばかり楽しみや刺激を求めていたように思う。そうであってはいけない、自分の内にこそ目を向けるべきだと。
生命は、時という画布の上に、みずからを描く。そして時は、けっしてくりかえさない。ひとたび過ぎゆけば、永遠に過ぎ去る。行為もまた同様である。ひとたび行えば、行われる以前にはけっして戻らない。 - 『禅』(鈴木大拙)
この一文がとても胸に刺さった。流れゆく時の一瞬一瞬を生き、その刹那を感じること。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」 - 『マチネの終わりに』(平野啓一郎)
小説で何度も出てくる蒔野の言葉だが、人の記憶の脆さを禅とはまた違った視点から問いかける。
情報に溢れかえったこの世界では未来に目が行きがちで、今を生きることは決して容易いことではない。それでも直島で自転車に乗って感じた風は本物だった。そういう風に日常を生きれるようになるためには、日々とどう向き合うべきであろうか、そう私は自問する。