九月の上旬、僕は体調を崩して入院することになった。夏も終わりに近づいていたが、まだ蒸し暑い日々が続いていた。しかし病院内は冷房が効いていたので、外の暑さを意識することはなかった。
医師によると、僕の病名は軽い肺炎だと診断された。治療は毎食後の錠剤数粒と、一日一回、午後の同じ時間に点滴を打つ必要があった。点滴をしている間は、大抵やることがなく、ぼんやりと考え事をしていることが多かった。
ある日点滴をしている時、軽い睡魔に襲われて意識が遠のくのと同時に、僕は不思議な感覚に襲われた。夢の中で僕は浜辺に立っていて、水平線上に広がる海の果てを眺めていた。すると波のざわめきが聞こえてきた。潮風が僕の頬にふっと触れると同時に、ほんのりと潮の香りがした。
目が覚めるといつもと変わらない、緑色のカーテンで仕切られた病院の景色が目の前に広がっていた。点滴はまだ三分の一ほど残っていて、残りの点滴が一滴一滴落ちていく様子を茫然と眺めた。
あの日以降、時々点滴の最中に眠りに落ちると、同じように不思議な感覚に陥ることが増えた。誰かと笑い合う午後、雨の日の駅、小さな部屋の静けさ。それは夢というにはあまりに鮮明で、誰かの記憶の中を漂っているような感覚だった。
看護師さんに点滴薬について尋ねてみたが、
「普通の点滴薬ですよ」
と言われただけだった。
ある日の午後、また点滴の時間が訪れた。その日は病状が少し悪化したため、いつもより長い時間点滴をすることになった。点滴をしているといつの間にかまた眠りへ落ちていった。
そこではカーテンで区切られた空間の中で、ベッドには白色のシーツが広げられ、窓の外には晴れた空が見えた。よく見かける病室の景色だったが、身に覚えのない誰かが隣に横たわっていた。換気のためか窓は少し開けられていて、カーテンが風に靡いていた。
僕はその景色が僕の記憶ではないことを直感的に理解した。なぜなら僕の病室には僕以外に入院している患者はいなかった上、病室の景色がいつもと少し違って見えたからだ。具体的には、その夢の中の病室には花が置いてあり、その周りに置かれた日用品も僕が使っているものと違っていた。きっとこの景色は病院に入院していた誰かの記憶だ、と僕は思った。
それからしばらくして、僕の病状はだいぶ良くなり退院日が決まった。退院日の前日、最後の点滴を受けながら、僕はあの日夢の中で見た海の風景を思い出していた。ふと点滴の袋を見ると、透明な液体が揺れている中で、海のような光が見えた。
そして無事に退院日を迎えた。
「あの点滴の中にはきっと誰かの時間が溶けていたのかもしれない」
病院を後にしながら僕はそう思った。それは僕の記憶ではないのに、どこか懐かしさを伴っていた。そよ風が僕の頬に触れた。