朝、店の前に水を撒くと、アスファルトの表面に花の色が少しだけ映った。まだ通りに人影はなく、切り分けた花の匂いが店の中に漂っていた。花屋でのアルバイトを始めて半年が経とうとしていた。
花屋での仕事内容は、市場での仕入れや水揚げ、お客さんから依頼されたブーケの作成などがあった。この中でも取り分けて花束を作る作業が好きだった。部屋に飾るものから、病院のお見舞い、祝い事の贈り物としてなど、様々な用途で花束が依頼された。お客さんからの依頼を元に、贈る相手のことを考えながら、一本一本花を束ねていく作業はとてもやりがいがあった。
そして、この花屋には毎週火曜日に決まって訪れる客がいた。中年くらいの男性だった。男は店に並んだ花の中から一本の小さな白い花を手に取って、
「この花の名前は何ですか」
そう僕に尋ねた。男は毎回同じ花を買っていくのに、訪れる度に花の名前を聞いてくるのだった。
「スズランという花です」
「スズラン、スズラン…」
男はその花の名前を小声で繰り返しながら、会計を済ませた。
その翌週も男はスズランを買いにやってきた。夕暮れ時で外は橙色に染まっていた。男は花を指差して、
「この花の名前は何ですか」
そう尋ねるのだった。
男は本当に花の名前を忘れているのではなく、わざと花の名前がわからないふりを装って、名前を聞いているように思えた。僕は不思議に思って、なぜ毎回同じ花の名前を聞くのか男に聞いてみた。
「どうして毎回この花の名前を聞いてくるのですか」
男はこう答えた。
「忘れないように、忘れているんです」
僕は問い返した。
「忘れないように、忘れている?」
すると男は花を見つめながら続けた。
「この花は妻が生前好きだった花なのです。妻はよくこのスズランを部屋に飾っていました。毎週花の名前を聞くたびに妻との記憶が思い出されて、懐かしい気持ちになります。妻のことを忘れたくないので、こうやって毎週花を買うようにしています」
男はそう言ってスズランを何本か手に取って買っていった。日は暮れ、辺りは静かな闇に包まれ始めていた。
ある日、僕は彼から花束を作って欲しいという依頼を受けた。
「この花を使って花束を作っていただけないでしょうか」
「予算はどのくらいで考えていますか」
「三千円くらいでお願いします」
話によるとこの日は男とその妻の結婚記念日だと言う。僕はスズランに合う花を何種類か見繕って花束を作った。
花束の会計をする際に、僕はレシートに「スズラン」と書いて、男に渡した。男はレシートを眺めながら、
「スズラン」
と一言呟いて、レシートをポケットに閉まった。